「殺された」戦死者の思い/野口 健(アルピニスト)


☆マスクの準備は大丈夫ですか?☆

快適生活





◇テントに遺書を書きつづけていた◇


 ヒマラヤ・マナスル峰から帰国し、間もなく2カ月。早くも、あの生き死にの世界で必死に生きていた生活が恋しい。ヒマラヤにいたときのほうがはるかに厳しい環境だったのに、私にはヒマラヤでの生活のほうが、日本にいるときよりも楽なのか、肉体面は別として、少なくとも精神的にはとても健康。ヒマラヤでの生活はたしかに厳しいけれど、要はいかにその日を生き延びるか。日々を精一杯生きるだけで、じつにシンプルだ。


 ヒマラヤには通信機材を持ち込んでいるので、日本の情報もそれなりに入ってくるが、タレントの誰々が公園で全裸になって逮捕されたとか、小沢代表が辞任したとか、まあハッキリいって、どうでもいいようなニュースばかりで、とくにヒマラヤなんかにいると、「日頃の情報がいかにもくだらないなぁ」と感じる。最近では、どこかの県知事が「私を総裁候補としてお戦いになるお覚悟はありますか」とお恥ずかしいかぎりの勘違いに日本中が振り回された。また自民党民主党のやり合いも、政策を争うものではなく、互いのスキャンダルを追及することに終始しており、これまたいかにも程度が低い。


 われわれは日々、どうでもいいような情報に振り回されている。しばらく日本にいると、そんなことにも気が付かなくなる。無意識のうちに毒されているのかもしれないが、ヒマラヤでは余裕がないせいか、無意味な情報なんかに構っていられない。そのぶんだけ、精神的に健康になるのかもしれない。


 政治家も評論家も、コメンテーターもキャスターも、その多くが言葉の世界。抽象的で幼稚な表現かもしれないが、多くの人はカッコいい言葉を並べるものの、けっして命を懸けようとしない。命を懸けることだけが尊いとは思わないが、言葉だけの世界はどうも苦手。故にヒマラヤの世界が恋しくなるのだろう。


 そんなとき、ふとヒマラヤでの出来事を思い出した。


 以前、太平洋戦争をテーマにした映画『硫黄島からの手紙』を鑑賞した。そのなかで、玉砕を前にした多くの将兵が、家族などに書き残した手紙を、米兵に見つからないように土に埋めるシーンがあった。一緒に見た友人は「手紙は相手に届かなければ意味がないのに。何で埋めたんだろう」と不思議がったが、私には、死を目前にした彼らが防空壕のなかで、ロウソクの光の下、最後の言葉を書き綴った気持ちが痛いほど分かる。


 5年ほど前だったか、ヒマラヤ遠征での出来事。上部キャンプで悪天候に閉じ込められ身動きが取れなくなった。吹雪で飛ばされそうな小さなテントに独り閉じ込められ、「俺はここで死ぬのか」と覚悟を決めなければならなかった。ひしひしと近づいてくる死の世界。仲間に「書けるうちに遺書を書いたほうがいい」と伝え、そして自分も手元にあった紙切れに、日本に残した家族やスタッフに向けた手紙を書こうとするのだが、いざ遺書を書き始めてみると、なかなか言葉が出てこない。これが最後のメッセージになるかと思えば思うほどに、言葉が出てこないのだ。そして書き始めたら、今度は止まらなくなった。すぐに紙がなくなり、気が付いたらマットやテントに油性マジックで書きつづけていた。


 あのときの心境は、死に対する恐怖というよりも、どちらかといえば孤独に近いのかもしれない。死を受け入れる心の準備はいつでも孤独な作業だ。この言葉を自分で届けることができなくても、いずれ誰かが見つけて家族の元へ届けてくれるだろうと信じて。また手紙を書くことで、どこかで家族と繋がっているという安心感を味わうことができた。『硫黄島からの手紙』やヒマラヤでの経験は、人間は思いを人に伝えるために生きているということを教えてくれた。


 この経験がきっかけとなり、先の大戦で命を落とした日本兵のご遺骨収集を始めた。テントのなかで死を感じながら「俺は自分の意思でヒマラヤに来た。それでも、たとえ亡骸になっても日本に帰りたい」と心の中で叫んでいる自分がいた。


 多くの兵士は赤紙1枚で戦地へと派兵された。出征時にはお国のため、天皇陛下のためと盛大に見送られたであろうが、飢えや病、また孤立無援のなか、捕虜になることを許されず、自決しなければならなかった兵士たち。徐々に死を迎えながら薄れる意識のなかで、いったい何を思ったのだろうか。死を目前にした兵士たちに、はたして「天皇陛下バンザイ」はあったのだろうか。ヒマラヤの体験から私なりに感じたのは、兵士たちが最後に思いを馳せたのは、国に残した母親、また恋人や子どものことではなかったかということだった。


 いまだ多くのご遺骨がジャングルのなか、野ざらしになっていると聞いたことがあった。ヒマラヤのテントのなかに閉じ込められながら、もしここから無事に生還できたら遺骨収集をせねば、と心に誓った。今月、再びフィリピンに向かうが、遺骨収集はこれで4度目となる。


◇ジャングルを彷徨い見つけたご遺骨◇


 マナスル峰から帰国してから嬉しい出会いがあった。私が遺骨収集を始めたころに、1冊の本を偶然にも本屋で手にした。『万死に一生』(徳間文庫)であるが、これは学徒出陣でフィリピン戦線に送り込まれ、部隊が玉砕しながらも、奇跡の生還を果たした柳井乃武夫さんが書かれた従軍記だ。その著書と出合う直前にレイテ島とポロ島(レイテ島の真横に位置する島)で遺骨調査活動を行なっていたが、驚いたことに『万死に一生』の舞台がそのポロ島。柳井さんはポロ島から生還できたたった4名の兵士の1人であった。


 灼熱地獄のジャングルを彷徨い、見つけた洞窟のなかに足を踏み入れて、ヘッドランプで真っ暗闇を照らしたら、あまりの光景に「あっ」と声を上げてしまった。足元は踏み場がないほど一面にご遺骨が散乱していたのだ。ご遺骨は何も語ってくれない。私はご遺骨を手にしながら、ここでいったい何があったのか、もっと知り、感じたかった。そのタイミングで『万死に一生』と出合った。


 そして、この本を手に、再びポロ島に戻った。本のなかにある地図を見ながら、ここで部隊がこうなったんだ、など1つひとつ確認しながら、収集作業を行なった。柳井さんの著書が、ご遺骨の代わりにそこで何が起こったのかを私たちに語ってくれた。


 その柳井さんと直接お会いできることになった。ポロ島で私が撮影したご遺骨の写真をお見せしながら、現場の様子をお話しさせていただいた。柳井さんは「これほどご遺骨が残っているとは知らなかった。というのは遺骨を勝手に持って帰っちゃいけないという話だったし、また厚労省の発表で遺骨収集は完了したといった話を聞いていたし。ですから、野口さんの活動で、まだそんなにたくさんあることを初めて知ってビックリしました」とおっしゃられた。そして、国のために亡くなった兵士のご遺骨115万体をいまだに放置している国の姿勢に対し、「情けないですね。日本人のすべてが終戦と同時にすっかり変わっちゃった。日本兵の死体がどうであろうが、もうそんなことお構いなしになった。悲しいことです。アメリカのアーリントン墓地に行くと、あれだけ見事なかたちで、国に殉じた人たちに対し手厚くしています。ノルマンディーの海岸もそうですね。みんな、どこの国もやっていますよね」ともおっしゃられた。


 またこんなお話もあった。


「私たち日本兵はただ殺されるために派遣されました。日本では『戦死』という綺麗な言葉がある。戦いで死ぬこと。これは自動詞です。自分が死ぬわけだから。ところが英語では『kill』。『killed』ですよね。したがって英語では戦死者のことを『killed in action』と言う。『action』は作戦を意味しますから、『作戦によって殺された』となります。つまり殺されるという観念です。それが日本語に訳すると『戦死』になる。自らの意思で戦死を遂げたと。ある理想の下に、自分で戦って自分で死ぬという自動詞に置き換えられている。そもそもそれがインチキです。無謀な作戦のなか、武器もろくにもたされず敵陣にバンザイを叫びながら突撃を命令され、背いたりすれば敵前逃亡罪といわれ、軍法会議も開かれないままその場で即刻仲間たちが銃殺された。これは、もうわれわれは『killed』。殺されたんだと。自分の国に殺されなければならなかったこの戦争はなんだ!と思いました」と柳井さんの言葉は1つひとつがズシリと重たかった。


 もちろん35歳の私は、戦争を知らない世代だが、ヒマラヤの経験がこうして遺骨収集に繋がった。柳井さんとの別れ際、「野口さんのお気持ち、活動には感謝しているんです。ここに戦後初めて、戦死者の悔しい思いが次の日本のジェネレーションに伝わったと思います。戦後60年、ずっと胸につっかえていたわだかまりが、これでやっと抜けました。感謝しています。ありがとうございます」と私には十分すぎるほどのお言葉であった。


 柳井さんとはけっして長くない対談であったが、柳井さんの思いは私にはしっかりと伝わっていた。それはけっして言葉だけの世界ではなかった。
                 【Voice】


    ※野口さんて、いろんなこと
    やってるんですね!!